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一般社団法人日本染色協会

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 About the Industry 染色加工業とは
帝政ロシア時代にモスクワで巨大な染色工場が存在した。

若い技術者にとって染色は 魅力的な職場だった

明治時代の中頃から日本の染色業は完全に家内工業的な染色と工業的染色業に分極化した。

後者の工業的染色業となった日本の染色工場にとって、明治、大正、昭和20年代は、欧州、そして米国から技術を学ぶ時代だった。日本の染色業技術者たちは、西田博太郎博士が提示した技術革新を実行することこそ、国の成長に通ずると強調したが、西田博太郎博士が掲げた技術革新のための7条件に共鳴する人は多く、それぞれ着実に実行に移した。

それがパッと花開いたのは昭和20年代以降である。旧帝大卒、国立大学卒の技術者らが続々と染色工場に入社し、日本の染色技術の発展に貢献した。それら技術者たちの中には、後に大学に戻り、教授になった人も多い。

昭和20年代当時、若い技術者にとって、染色工場は魅力的な職場だった。染色工場に入社することで欧米の新しい情報に接する機会が多かったからだ。

当時、化学の最先端を代表するものであった合成染料を取り扱うことで、欧米の化学知識を幅広く学び取ることが出来た。又、新しい化学分野の一角を占めた界面化学や機械工学の新知識や、その新情報に接することが出来たからである。

日本の歴代の染色技術者たちは、明治から昭和20年代に至るまで半世紀近くかかって、欧米から数多い新技術を学び取った。それに対してロシアは、帝政時代に工業的染色への脱皮のために必要な技術とその利用のため、先進国技術者を招きながら、新しい染色技術を自らのものに出来なかった。これは帝政から共産主義革命へ移り、国内の社会的混乱が長引いた特殊事情があったのかもしれない。

染色技術に限らず、ロシア人の間で、先進国技術の国内移転が円滑にいかなかったのも、国内政治の混乱が最大の原因だったといえる。

それに対して、日本の染色技術は、第二次世界大戦で、社会経済の進歩面の過程で大きく混乱したが、それは外国と戦争した結果によるもので、国内の政治的、社会的大混乱によるものでなかった。

そのため第二次世界大戦後、日本の国民は一致して、焼土から立ち上がり、日本経済・社会の復興に勢力を傾けることが出来た。そういうベクトルに沿って、日本の染色工場は昭和20年代まで、ひたすら欧米先進国から進んだ染色技術の習得に力を入れられたのは幸いだった。

モスクワに巨大な染色工場があった。

日本の染色技術は昭和40年代に至って、世界A級と評価されるほどになったが、もしも帝政ロシアが西欧と同じような民主的資本主義で発展したならば、ロシアの染色技術は日本の強力なライバルになっていたかもしれない。

すべての国において正常な工業国として発展するためには、当初は軽工業の近代化を図り、その発展を土台にして、重工業を開花させていく、これが常道である。ロシアは違った。

スターリンによって、一挙に重工業重視に走った。民間の力によって、国の経済を発展させず、国の計画、ノルマ制度でソビエト連邦を形成した。その結果は、あらためていうまでもない。

もしもロシアが常道の経済発展を促進していたならば、ロシアの染色業はどうなったか、一つの事例を紹介しよう。日露戦争が始まる前のモスクワで巨大な染色工場が建設されていた。その模様について、次の項目で紹介したい。

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