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一般社団法人日本染色協会

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英国と肩を並べたロシア更紗工場
世界的に注目された工場があった

1889年巨大な繊維工場がロシアのモスクワに完成していた。この工場を後に日本の染色に大きく貢献した西田博太郎氏が実際に工場視察している(帝政ロシア末期に)。

同氏のリポートによると、「モスクワ河の左岸に聳え立つような大工場があった。社名はトレフゴルノイ・マヌファクツール社である。社歴は1799年、かなり長い歴史を重ねている。

同社は浸染、更紗生産から始め、以後、紡織部門を加え完成した巨大な工場だった。その内容を分類すると、紡織と精練漂白、捺染、及び浸染、起毛加工を行うようにしていた。工場の全面積は57,600坪、石造り建築という豪華なものであった。この工場設備は6階建の建物になっていた。生産内容は40番手〜70番手の綿糸を引き総スピンドル43,632本。機械工場は4階建の工場では、ジャガード、ドビー機にて総数1,528台を稼働していた。漂白工場も別に設け、1907年製マザープラット缶10台を入れていた。

捺染、浸染、仕上工場は1日当り生産は長さ60アルシンの布12,200本を算し、捺染、浸染機械37台、起毛機14台を動かしていた。

染備工場はローラー彫刻室で意匠師、彫刻工150人を雇用していた。

別に需要地から意匠図案を購入していた。修繕工場には動力室があり、スイスのゾルツェル社の蒸気タービン3台、発電機3台、5,000馬力、工場内のモーター総台数は380台、別にガス発生所が二ヶ所あった。

なお、自動防火装置を備え、グリンネル式、リンザー式のスプリンクラーを用い、消防隊士官2人、消防夫60名を雇用していた。

汽缶の総数は巨大で無煙炭を燃料として使用している。ドン地方の付属炭坑には坑夫700人を雇用、産炭額1ヶ年800万布度(約13万トン)、更に職工数4人、書記雇人500人、それらの人々は寄宿させていた。家族には別の宿舎を与えていた。付帯事業として私立の工業学校、宗教学校、幼稚園、託児所、病院、保養所、図書館、音楽室、購買組合販売所など設けていて、それらに関係従事する人々は数百人に及んでいた。

毎年60アルシン「長」物260万本を生産し、その品種は捺染更紗を主にして、キャンブリック、綿繻子、トリコット、綿ネル、モスリン、肩掛、前掛らの生産していた。他に帝ロシアでエミル・チュンデル社、ダニロウスキー社、コエヒリン社などが、捺染機だけで各35台を羅列していた。日本では最大の更紗工場級で大型捺染機は12−13台程度なのに、ロシア更紗工場の規模の大きさは誰でもが想像がつく。

このような巨大な更紗工場の経営者はドイツ系、フランス系の人々で占めていたが、帝政ロシアが崩壊して、彼等は行方不明になった」と、西田博太郎氏は書いている。

注目すべきことは、西田博太郎氏は次のように書いていることだ。「眞に知りたきは、その後のロシアの更紗業の状態である、この回復と絶滅とは延いて我邦(日本)更紗業の前途に極めて深き関係を持つからである」。

西田氏が文章を書いた頃のロシアのその後について、誰もが知っているようにスターリンによる上意下達の計画経済へ移行した。その結果、ロシアは更紗の生産で世界的にリードした地位を失った。一国の政治変化で民間産業の盛衰が大きく左右されることを西田博太郎氏は間接的な表現で示唆したといってよい。

(注=アルシンは原文のままです。そのため意味は不明)

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