日本の消費者の間でイタリアブームだ。イタメシ、イタリアのテキスタイルファッション、その他、工芸品に対するイタリア信奉者は1990年代の後半になって、どっと増えた。特にイタリアのテキスタイルに注目されるようになった背景を知っておく必要がある。
今日のイタリア繊維産業を形成するのに、イタリアは色々な興亡を経験している。楽々と今日の世界的地位を築いたわけではないのである。
1800年代後期の欧州における染色、捺染は染料の、中心的舞台はドイツ、英国、スイス、フランス等であった。イタリアはどうであったか。幸いにも華やかな近代染色、同捺染技術研究の舞台(地域)に近いことで、情報入手は日本とくらべ有利な立場にあった。
そのイタリアは、16世紀にベネチア等で栄えた毛織物業が17世紀以降、オランダ、さらには英国の毛織物に押された。
シルクも1878年のパリ博覧会にコモのシルク製品を出展するまで、他の欧州諸国に押さえられていた。
そのイタリアが20世紀の後半から力をつけ、さらに21世紀近くになって、欧州繊維工業のリーダーになったことに日本の関係者は注目すべきである。
1990年代に入って日本の繊維業界はイタリア繊維業界の活力ある抬頭に注目するようになった。日本の主要アパレル企業各社は、競ってイタリアのテキスタイルデザイナー、およびイタリアのアパレル、繊維工業と提携、又は交流を密にする動きが目立つようになる。
なぜイタリア繊維産業が力をつけたのか、1930年代までのイタリアはフランス繊維産業の下請企業的存在であった。それがあれよあれよという間に、1980年代後半からイタリアの繊維工業はめきめきと頭角を現わし、西欧で無視できない存在になった。
1987年時点の世界繊維工業売上高順位200社によると、ベネトン社らイタリア各社の売上げは前年対比でめざましい躍進をしている。
1989年時点のベネトン社ら各イタリアの繊維工業の展開によると、明らかにEC経済市場が統合されるのを見据えて、EC繊維工業リーダーになる努力を重ねたといえる。
1980年代末時点で東の繊維工業のリーダーが日本だとすれば、西のリーダーとしてイタリアの存在を抜きにして物事を論じられようになったのである。
イタリア繊維工業が現在に至った歴史的経過を、もう少し具体的に知りたい人々のために、以下解説すると以下の通りである。
1987年10月、染織経済新聞社企画によるITMA87(パリ)−イタリア染色業界視察団一行29名(団長・根本嘉郎氏)が、コモ訪問の際、コモ・テキスタイル業界のリーダーであるロンツォーニ博士から資料紹介されたイタリアの繊維史の概要を、あらためて紹介すると、シルク・テキスタイル産業はコモで発展した。
イタリアのシルク産業の始まりはシシリーのパレルモである。それは1130年にさかのぼる。
ルージロU世がビザンチンから何人かのテキスタイル職人を連れて来たのが始まりとされている。
蚕の養殖とシルク産業は皇帝ギィウスティアノによって促進されたギリシャからもたらされたのである。
シシリーでの新しいシルク・テキスタイル産業が急速にイタリア各地に波及していく。
特に1200年にはルカで、1250年にジェノバ、ベネチアで、1300年にフィレンツェで、1400年にミラノ、1500年にチュリンでそれぞれシルク産業が発展し、共に繁栄した。
最初の水力(圧)式スピニングマシーンはルカから、サーボルフェサニによって1272年にボログナで設置された。しかし300年間、人目につかないままだった。秘密にされていたのである。
後にウゴリノラポンという人が町の人達にその秘密を洩らした理由で、彼は裁判を受け、長い禁固刑に処された。
シルク織物づくりの秘密が公開されて、シルク産業は南から北へ波及していく途中で、ウミリアテド修道士達によって1400年の中ごろ、シルク産業はコモに波及した。
コモの最初のシルクスピニングマシーンは1570年にコモ湖の岸辺のベラノで設置されたが、シルク・テキスタイル産業が幅広く発展することは遅かった。その理由はコモの町で非常に成功していたウールウィーヴィング工場によって妨げられたからである。ウール織物がシルク織物に圧迫を受けるというのが理由であった。
現在でもコモにやって来る訪問客は過ぎ去った活動的な時代の証明である"ウールクローズストリート"ウール衣類の通りを意味する"ヴィアパンニラニ"を見ることが出来る。
(本文は染織経済新聞「染色史」より)。