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一般社団法人日本染色協会

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伊コモの絹織物生産の台頭は1740年頃だった

イタリア・コモのテキスタイル産地の台頭はいつ頃か、日本のアパレル業者たちが最も知りたいことである。日本のプリント加工業界にとってもコモが台頭した歴史に興味があるだろう。

それについて平成元年5月17日付、染織経済新聞に連載されていた「染色史」に同社の佐々木一彦主幹(当時)が以下のように書いている。 …イタリアのコモといえばシルク織物の産地として有名である。ところが平成元年時点のコモでは絹糸や原料布を中国等から輸入しているのが現状である。コモの養蚕業は潰減状態になっているからだ。昔のコモは絹織物の産地として欧州では有名な存在だった。

コモの絹織物の進歩は1740年頃からスケールアップした。それまでの絹織物の生産は細々と家伝の秘法のような作り方にとどまっていたのである。

1740年に絹織物の織機が60台あることが、コモの公文書で記録されている。1770年に275台、1790年に1035台に増えたと記されている。それら織機は手織機である。

絹織物の生産が増えれば、当然、商人が群がってくる。商人たちはコモから絹を買い、スイス、中央ヨーロッパ諸国、ドイツのドレスデンや、フランクフルト、ライプチヒ、オーストリアのウィーンなどで開催される展示会で、慎重に大事に、コモの絹織物を売り、又、絹糸を各地の顧客に供給したりした。

その当時のイタリア・ミラノの行政政体のリポートによると、当時のコモの住民14,000人の内で2,500人が絹に関係する仕事に従事していた。コモ地区での養蚕や桑の木の栽培もスケールの大きい形で推進されていた。

それまで養蚕、桑の栽培規模が大きかったのは南イタリアであったが、北イタリアのコモで養蚕、桑の栽培が増えるにともない、当時のガリッゾーマ・フォルザ・ミラノ公爵が絹織物の生産を上げるために特別プレミア付きで252uに付き5−50の桑の木を植えるように布告している。

この他、コモの業者筋から聞いた話だがコモは第一次世界大戦前まで、オーストリアの勢力下に入っていたので、マリー・アントワネットの母君であるオーストリアの女帝マリア・テレジアの奨励でコモ地区の養蚕育成に、かなり力を入れたことも史実から洩らしてはいけないと聞かされた。

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