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一般社団法人日本染色協会

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コモの歴史を語ってくれたロンツォーニ博士

イタリアのコモの繊維産業の指導者ロンツォーニ博士の話(1983年取材)によると、1815年の公文書によると政府に示されたレポートがある。これはイタリアのコモで生まれた偉大な物理学者であるアレッサンドロ・ヴォルタ(1745〜1827)が書かれたものである。彼は電気エネルギーの発見者でもあり、木を燃やす代わりに蒸気ボイラーを使ってシルクを紡ぐための機械をコモ近郊のカッシナリッザーディの工場に導入したとのレポートがある。

1800年代にコモでは2300台の織物機械が稼動し、6,000人以上の人々が働いていた。年間30,000ピースのシルク布を生産していたという(1ピース約25m)。

1850年に一連の事件がコモのテキスタイル産業に最初の危機として襲った。それは蚕の伝染病である。何万という蚕が死んだのである。

コットンの新しい製造の技術による競争、アジアからのシルク輸入でヨーロッパをひっくり返す政治的出来事がコモのシルク生産活動に大きな打撃になった。

19世紀のほぼ終わり頃には、より幸運な年が巡ってきた。1878年のパリ博覧会でコモのシルクが再び、品質の優秀さが欧州の繊維取引関係者に認められ、ヨーロッパで最高位の地位を取得したからだ。

1872年に電気を使った機械的な織機の導入でコモで新しいテキスタイル産業が始った。そして1900年代の始めにはイタリアで操業している全織機の50%がコモ地方に集中した。 同時代にコモでは、織りと共に染色、捺染、仕上げ工業も始まった。

その時までコモはフランスのリオン、スイス、ドイツからの輸入に依存していた。

1866年にコモの市役所や商業会議所の尽力により、デザイン、織物、化学の三つの専門分野の技術者や労働者の教育のためにシルクスクールが設立された。

この学校は現在、外国の生徒から高く評価されるようになっている。

第一次大戦、第二次大戦という二つの戦争を経て、合成繊維の導入、社会、経済の大きな変化が起こった。コモのシルク産業にとっても新しくもあり又、重大な局面に立たされた。

第二次世界大戦後、多くの国で蚕や桑の木が消えたとき、コモで、シルク産業の新しい幕開けとなった。

そのためにコモでは織物の研究企画衣類や服飾品のために、その用途を気にとめること、商業的なものとしてだけでなく特に芸術的技術として織物を創造すること、ファッションとの一定したつながり、製造工程の基本的構成、これからの技術に十分注意するようになった。

専門技術者や労働者を正確に把握したり、常に高級な品質を保つための研究に力が入れられ、1980年代のコモのシルク産業を特徴づける重要なポイントとなった。 これからのことは"Setadi Como"(コモのシルク)というトレードマークをもつ織物は単に仕事の結果というだけでなく、トレードマークである"メイド・イン・イタリア"を有名にするために、多くのファッション会社と共に貢献した。コモの人々の芸術的な持味を世界にもたらすことが出来るようになった。

このことをイタリアン・シルクを好む国際的ファッションのスタイリスト達は充分知っている。構造危機の時代の中で、まだ、イタリア・シルクはイタリアの商業予算の中では重要なものになったという。

(注)=ロンツォーニ博士は1980年中頃に日本に来て、染色、捺染関係の人々と会っている。

※(以上の記事は染織経済新聞連載の「染色史」、リポート:佐々木一彦)

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